第31回あきた全国舞踊祭モダンダンスコンクール
杉原 ともじ
舞踊家
(神奈川県)
肖像

今回の秋田は往復を含め、例年以上に印象深いものとなった。
行きは地震の影響により8時間、帰りは架線切断による停電で、あたり一面の雪景色の中を新幹線の線路内を歩くという貴重な体験もあり9時間、往復とも通常の倍以上とあきた全国舞踊祭には敵わないものの、熱い戦いだった。

さて、私の往復の奮闘記は別として、各部門について少し触れてみたいと思う。

まず1日目 12月8日(土)に行われた「ジュニア1部」について
このクラスは、年齢別に子供らしい作品や踊ることの楽しさを学ぶクラスと思われがちだが、良いとするかは別として、技術も表現力もジュニア2部でも十分に通用するほどの出演者やそれを望む作品が多い。
当然コンクールである以上、ダンサーを含めた完成度の高いものが上位に行くことになるのだが、指導者が何を指針にこのクラスに出演させているかを見て私は審査している。シニアやジュニア2にも通じる題材やテクニックを与え、その完成度を高める事は、素晴しいことだと思うが、あたかも本人の中からこの年代のかわいらしさや純真無垢な表現がなされていると思わせる指導力と振付構成力をもっているものを私は評価する。
簡単に言うなれば、高い技術をこなさせながらも、このクラスならではの魅力を理解している演出力と、それを表現する、動きと情感の技術を教える指導力なのだろう。
あえて言うなら、この時代の子供の潜在能力に差はないはずだ。

同日に行われた「ジュニア2部」について
どこのコンクールでも言われることだが、このクラスは特殊なクラス。中学一年から高校三年までの出演者が一つの部門の中で戦わなければならない。しかし私がこのクラスで感じる事は、ジュニア1部のクラスでは、作品の顔が指導者である場合がほとんどだが、このクラスはダンサーの顔が見え始める。特に高校生ともなれば、その出演者がダンサーとしてどんな道を歩むかが見えてくる。
このクラスから顔の見え始めたダンサーは、上のクラスに行っても当然活躍する。それは、名前が分かるということではなく、3分間の中で、その個性がみえることだ。ジュニア1部のクラスとは違い、どんなに優れていても指導者の顔しか見えないものは評価しにくい。
体は軽いが芯も出来上がり始め、シニアに比べてもテクニシャン揃いであるからこそ、その将来性と個性が大切なのだろう。

続いて「群舞部門」について
このクラスは、あきた全国舞踊祭モダンダンスコンクールの目玉の一つでもある。
長年審査員をされた横山慶子先生の賞も作られ、是非出演作品数が増えて欲しい部門である。出演年齢は子供から大人までと、審査する私も観客も、モダンダンスを考えるという意味では、とても重要な部門だ。コンクールとしてテクニックやダンサーの資質は当然であるが、私は作品を望んでいる。創り手が指導者・ダンサー自身であろうと何を思考しその題材に行き着いたか。そして、それをどう振付、演出をし、作品として何を表現したいか、何を伝えたいか。モダンダンスとして当たり前の事を大切にして欲しい。誤解を恐れずに言うなら、コンクールという場所はその当たり前のことが置き去りにされることが多々あるからだ。

そして二日目 12月9日(日)シニア部門について
1982年から行われたこのコンクールの、シニア上位入賞者見ていくと、日本のモダンダンス界の ある一つの形が見えてくる。初年度より第20回までは、よき日本の現代舞踊を踏襲した踊り巧者が活躍した時代といえるだろう。
第21回から本年に至るまでは、ダンスが多様化し、舞踊コンクールのもつ意味合いも変わり始めてきた。それゆえ、他のコンクールよりもあらゆるタイプの上位を輩出している。それは、このコンクールが、近年の変化に対応していく許容をもつからだろう。本年度も様々な作品があり、その一つ一つのレベルが非常に高かった。まさに粒ぞろいである。点数ではなく、現実的には僅差であろう。しかし、それはある意味、絶対的スターがいない、という事でもある。ならば、それでいいのかといえば、それでいいのだ。なぜならスターがコンクールに出場するのではなく、コンクールがスターを作り出せばいい。
多様化するダンスに様々な顔のスターがいる。そのことがダンスの幅をひろげ、日本のダンス界の原動力となればいい。
コンクールには、様々な卒業があっていいと思う。
このクラスを卒業してからの道を、舞踊家としてしっかりと歩く為の準備を、出場できる今だからこそ、大切にしてほしい。


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Update:2017/02/23  

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